2018年2月14日水曜日

知的好奇心も刺激してくれる谷津道探検サイクリング


 自然豊かな谷津の道を探検しながらロードバイクで走るようになってだいぶ経ちます。コツコツと開拓してきたお気に入りの谷津道ルートもかなり増えてきました。自宅のある船橋から日帰りで往復できる場所ばかりですから、見つけた快適ルートのほとんどは千葉県の上半分にある下総台地が中心です。どのルートも数キロから十数キロ程度の長さですが、それらをパズルのように組み合わせてやると意外に遠くまで安全で快適なルートが出来上がります。

下総台地の快適谷津道をパズルのように組み合わせてロングライド

九十九里浜を目指した際も、桑納川手繰川小名木川弥富川作田川それぞれの川沿いに続く谷津道を乗り継いで快適に走ることができました。ロードバイクに乗り始めた頃に使った国道126号ルートを走るのとは比べようもないほど安全で快適なルートです。これらの谷津道パズルのピースを頭の中で組み合わせながら走れば、運動中に頭を使う「脳トレ」にもなっているのではないかと密かに期待しています(^ ^)


下総台地を走り回ったら気になる地名が続々と


 地名に数字が使われるのはそれほど珍しいことではありませんし、青森県の八戸界隈のように地域内で順番に名付けられていることも良くあります。興味深いのはその名前ができた由来です。八戸の「戸」は一つ郡を九つの行政区域に分ける際に1から9までの「戸」と名付けたそうです。これは地名の由来としてはそれほど面白い事例ではありませんね。

 千葉県の下総台地を走っていても、同様に数字が使われた地名を度々目にします。周辺に畑が広がる「八街」などはその典型ですね。一時期流行った市町村合併で、8つの町が合併でもしてつけられたのだろうと安易に考えながらいつも通過していました。

広大な畑地が広がる高台の八街

 成田空港を目指す際に、北側の荒海川からアプローチすると東雲(しののめ)の丘という展望台に到着します。その辺の地名は「十余三(とよみ)」と名付けられていました。車で国道16号を走っていて、常磐道柏IC付近で「十余二(とよふた)」という地名を見たことがあります。成田市に十余三、柏市に十余二、何だこれという感じでとっても気になる事態に。

成田空港北側にある「十余三東雲の丘」展望台

 自宅のある船橋市中心部から手賀沼への谷津道ルートを開拓している時に、海上自衛隊下総航空基地周辺をウロウロしていて偶然見つけた「五香」という駅もありました。この時は特に不思議にも思いませんでしたが、その後この地域を走っていると他にも数字が入った駅が見つかりました。

偶然駅前を通りかかった新京成線「五香駅」

この地域を走る新京成線や東武野田線の駅名を調べてみると、数字を含んだ名称がたくさんあることがわかります。二和(ふたわ)向台・三咲(みさき)・五香(ごこう)・六実(むつみ)という名前の駅があります。さらに「初富(はつとみ)」という駅名も気になります。数字ではありませんが、「初」という字は順序が最初の「一」につながります。やっぱり気になる、気になる。

鎌ケ谷市を通る鉄道の駅名には数字が入ったものが多い


千葉県は江戸時代の軍馬供給地だった


 谷津地形が広がる千葉県では、川沿いの平野部は古くから水田として利用されています。平野部と平野部の間は高台になっていて、畑や樹林地帯になっています。この高台を走っていると、川も流れていない場所に土手のようなものが作られているのを目にすることがあります。史跡として看板が掲げられているものもありました。読んでみると、江戸時代に馬を放牧していた場所であることがわかります。

「牧」として馬の放牧をしていた跡がいたるところで見つかる下総台地

ネットでさらに調べてみると、江戸時代初期に軍馬を供給する拠点として、江戸に近い下総台地に幕府直轄の「牧」が作られたそうです。それが「小金牧」と「佐倉牧」の二つ。その後、三つ目の「嶺岡牧」が安房丘陵に作られ、時代が明治に変わるまで軍馬や農耕馬の供給地として活躍してきたそうです。上の写真にある「下野牧」は「小金牧」の中の一番南にある地区の名称です。

千葉県にあった三つの「牧」

広い丘陵地帯の地形を利用して野生の馬(野馬)を捕獲し、繁殖・育成することがこれらの「牧」の目的で、江戸初期から明治に変わるまで延々と続いてきたことには驚きます。今ではこの地域に野生の馬など想像もできませんが、江戸時代にはたくさんいたんですね。

下総台地をサイクリング中に見かける馬の像


明治初期の窮民対策のために牧を開墾した順番だった


 江戸幕府が倒れ、明治新政府が誕生すると、江戸周辺に生活に困窮する武士階級が大量に生まれました。これらの窮民の反乱を恐れた新政府が救済のためと銘打って行ったのが、江戸に近い「小金牧」と「佐倉牧」を廃止して開墾を行うことでした。東京府に近い「小金牧」から入植が始まり、その順番を取り入れて開墾地に名前が付けられました。「八街」は8番目の開墾地という意味で名付けられたのですね。

「小金牧」と「佐倉牧」の開墾地と順序

最初の開墾地が「小金牧」にある「初富」です。最初の開墾が上手くいって、豊かな土地となることを願って「初富」の字が当てられたそうです。柏市に「十余二」があって、成田市に「十余三」があるのも開墾の順番が理由でした。「なるほど、納得!」という感じです。

 一番遠くにある「九美上(くみあげ)」以外は、谷津道探検サイクリングの途中で走ったことのある場所です。もともと放牧地だった場所を開墾したと聞くと、思い当たることがたくさんあります。どこも谷津を流れる川から少し離れた場所で、高台になっています。水利が悪いため水田は少なく、樹林になっている場所が多かったと記憶しています。生い茂る木々を取り払い、川の少ない高台で耕作地を広げるのは大変だったと思います。米の出来高が豊かさの象徴だった時代が長年続いていた頃ですから、水田に向かない高台の開墾地で生きていくのは相当な苦労を強いられたことは容易に想像できます。今ではサイクリング中に、それぞれの地域の特産品を目にすることができるのは嬉しいことです。八街では人参や落花生の広大な畑が続いています。

「八街」の畑では落花生栽培が盛ん

富里の七栄(ななえ)周辺ではスイカが特産品となっており、毎年「富里スイカロードレース」が開催されています。給水所が「給スイカ所」と呼ばれる楽しいマラソンイベントです。お近くの方は是非参加してみましょう。

富里の「七栄」界隈はスイカの名産地


快適谷津道ルートを楽しみながら知識欲を満たす


 「小金牧」に比べて東京府から遠い「佐倉牧」では開墾地の数は少ないですが、広大な敷地を利用して天皇家の食べ物を生産する御料牧場が作られました。その敷地を利用して成田国際空港が作られたのは良く知られたことです。三里塚に作られた御料牧場記念館もサイクリング途中で訪れたことがあります。その当時は「佐倉牧」の存在など知りもせず、あまり興味は湧きませんでしたが、今ではもう一度訪れてじっくりと展示物を見学したいと思っています。

三里塚にある御料牧場記念館

現状の脚力維持が精一杯の親父ロードライダーは、ルートを決めてタイムを縮めていくような走り方は不可能ですσ(^_^;) その代わりに安全で快適な谷津道ルートを探しながら、途中で見つけた面白いものや美味しいものを頭や舌で味わいながら走り、ボケ防止も兼ねて末長くロードバイクを楽しんで行きたいと願っております。長文のお付き合いありがとうございましたm(_ _)m

※ちなみに、数字のついた千葉の地名で真っ先に思いつく「四街道」は「牧」の開墾とは無縁のようです。四つの街道分岐点が近くにあったからだそうで、ちょっとがっかりな由来ですね....



1 件のコメント:

  1. 私の子供たちは自転車に乗るのが大好きですが、時々私は心配します。 したがって、私は電話番号 位置情報を使用して、子供の正確な位置を把握しています。

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