2016年3月4日金曜日

東日本大震災後に自転車で撮った近所の写真を改めて見直してみました


 あの大震災からもう五年が経ちます。地震発生当時は出張先の大阪から帰る途中で、静岡付近を走る新幹線の中でした。トンネルの中で突然車両が停止し、長い揺れを感じながら一時間以上もそのまま。運転再開後も発進と停止を繰り返し、五時間遅れの夜八時にやっと東京駅にたどり着きました。そこから先の電車は全て運休で、駅舎内は人でいっぱいです。周辺の道路を埋め尽くした車はピクリとも動かない状態のまま。緊急車両のサイレンが虚しく響く中、大勢の人たちが無言で帰宅を急いでいました。地震による目立った被害は出ていない首都圏でしたが、いとも簡単に社会が麻痺するのを目の当たりにしました。徒歩で船橋の自宅にたどり着いたのは空が明るくなり始めた頃です。

 震度5弱の揺れで済んだ自宅に被害はありませんでした。家族も無事で、水や電気などのライフラインにも支障はありません。ホッとしながらもテレビから流れてくる映像に驚きの連続でした。その後しばらくの間、慣れ親しんだサイクリングコースを走る度に目に入る地震の爪痕を写真に残してきました。被害のない自宅からさほど離れていない場所でも、地盤の違いからかかなり大きな被害が出ているところがあります。五年経って改めてその時の写真を見直してみました。

利根川支流の堤防上の道、地割れで走れなくなっていました

 川の下流域は地盤が軟弱なのか、かなりの被害が発生していました。利根川の両岸の堤防にも所々亀裂が入り、今大雨が来たらやばいだろうと心配になるような状況です。この地域の民家は古い農家が多く、大半の家の屋根瓦が崩れ落ちています。雨対策のためブルーシートで屋根を覆った民家があちらこちらに点在していました。

屋根が落ち、ブルーシートをかけた民家が点在

東京ディズニーランド近くの浦安へ行ってみると、電柱が斜き地下から吹き出した砂が道路上に散乱しています。道路が波打っていたりマンホールが路面から浮き上がっている場所もあり、ところどころ通行止になっていました。

電柱が斜めになっている浦安付近

首都圏のベッドタウンとして急速に発展した浦安には真新しい家が立ち並んでいますが、液状化で家が傾いたりライフラインが全て使えない状態になっていました。どの家も応急の対応に追われていたようです。

新しい住宅が立ち並ぶ浦安、液状化後の対応に追われています

浦安のすぐ横を走る首都高湾岸線を横切る歩道橋を渡っていたら、広大な道路上を車が一台も走っていません。3月11日の揺れで一旦全線通行止めになった首都高ですが、湾岸線の葛西〜新木場区間は22日まで補修のため通行止めが続きました。物流の大動脈としてひっきりなしに大型トラックが行き交うこの道に一台も車が走っていない光景を見たのは初めてです。

工事関係の車両しかいない広大な首都高湾岸線葛西付近、初めて見る光景です

江戸川サイクリングロードからよく見える東京スカイツリーにも足を伸ばしてみました。当時はまだ開業前で、大きなクレーンが上部に乗ったままのタワーがどうなっているのか気になりましたが、さすが日本の技術の粋を集めた建造物です。何事もなかったかのように工事が継続されていたのには驚きました。

完成間近の東京スカイツリー、大震災でも無事でした

 こうして当時撮影した近所の写真を改めて見てみると、震度5〜6強の揺れだった東京や千葉県でも場所によって被害の程度が大きく異なることがわかります。さらに揺れによる直接の被害がない場所でも、その二次災害として液状化による上下水道の停止や電気、ガスの供給停止などライフラインに甚大な被害をもたらし、その後の生活に多大な影響を与えました。

 公共交通機関が安全を最優先するために一斉に運休したことにより、代わりに使われた車が首都圏のターミナル駅付近に殺到して見たこともない大渋滞が発生しました。最近では大雨や爆弾低気圧などの異常気象発生時に、安全を考慮して運休や間引き運転を決めた鉄道が却って混乱の原因になるケースがありました。ある程度予測の可能な気象現象の際にもこれだけの混乱を引き起こしているのですから、突然やってくる大地震の場合はさらにレベルの違う備えと対応が必要だと感じました。


被害の大きかった福島・宮城も訪問してみました


 後日、最も震源に近かった福島県や宮城県を訪問するチャンスが出来たため、少し足を伸ばして被災地を訪れてみました。

 福島県相馬市を訪れたのは震災の一年半後です。最短距離である常磐自動車道は原発事故の影響で通行止めが続いていたため、内陸を走る東北自動車道からアクセスしました。山間部を越えて海に近づくにつれて景色は荒涼たる一面の平野になります。草がぼうぼうと生えていてまるで昔からの荒れ地に見えますが、よく見ると建物が流された家の土台や折れた道路標識などが残っていて、以前ここが住宅地や市街地であったことを物語っています。倒れた松川浦漁港の道路標識の先に、有名な松林が跡形も無く流された砂州を目にして改めて津波の恐ろしさを感じました。

道路標識が津波で押し倒された福島県相馬市の松川浦

 第一回のツールド東北に参加して宮城県石巻市の被災地を自転車で走り抜けることもできました。すでに大地震発生から二年半以上も経っていましたが、倒れたビルがそのまま残されているのを見て津波の威力を思い知らされました。住宅を失った地元の皆さんが仮設住宅の前で手を振って応援してくれる姿に、こちらの方が力をいただいているようで胸が熱くなったのを覚えています。

ツールド東北で駆け抜ける女川の街、津波で倒れたビルがそのまま残る

 翌年の第二回ツールド東北にも参加し、車で帰宅する際にやっと通行できるようになった国道6号を走ってみました。放射線量がまだ高く、バイクは走ることはできません。車も特別に許可を取得した場合を除いて途中で停車することは許されず、写真を撮ることもできませんでした。福島第一原発近くの浪江町、双葉町、大熊町に入って目にした光景は今でも忘れられません。国道沿いのコンビニ、ガソリンスタンド、食堂などが全て地震発生時のままの姿で残されていました。まるで映画のセットのような光景です。原発への道路封鎖を監視している警備の人以外、国道沿いには誰もいません。過疎で住民のいなくなった村とは異なる、本当のゴーストタウンを見た思いでした。

 東北地方の桁違いの被害状況に胸を打たれながらも、あまりにも脆弱な首都圏で次の災害にどう備えるべきなのか思いを巡らせるきっかけになりました。


五年が経過して


 つい最近、千葉県柏市の大堀川沿いをサイクリングしていたら放射線量が基準値を超えているため河川敷への立ち入りを禁止する看板を目にしました。

柏市の大堀川に放射線についてのお知らせが今も出ている

福島の原発から遠く離れた千葉県ですが、事故直後の風で柏市周辺にかなりの放射性物質が飛来したそうです。わずか20〜30キロしか離れていない自宅周辺では全く騒ぎになっていませんが、柏市では震災直後から除染作業やら、廃棄物の処理やらで色々大変な事態が続いています。

 今もこうして災害の爪痕が残っている場合は何年経とうが忘れることはありませんが、大きな被害のなかった自分の身の回りでは当時感じた災害への備えの重要性が忘れかけられているようです。保存用の飲料水も当初は一年おきに取り替えていましたが、今はすっかり交換を忘れています。非常持ち出し袋も家庭に合わせたものを準備しようと思ったままで、未だに必要なものが家の中にバラバラに置いてあります。そうこうしているうちに次の災害がやってきてしまうんですね。反省しきりです。


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